伝えることに関する日本語の考察

文字を読みながら音読することと、
聞き取った音をそのまま繰り返すことの脳の認識力の違いを感じている。

 

文字があると、音だけで聞き取った時よりも鮮明にイメージが浮かんで来る。
音だけで聞き取ろうとすると、印象だけが残る感じに近い。

与える印象、伝えたい内容、

「音だけ」と、「文字だけ」のそれぞれ単独では受け取りきれない。
音と文字を同時に認識することで、より深い想像ができる。

 

 

知らない曲において文字だけで歌詞を読むことは案外苦痛だ。
なかなか内容も頭に入ってこないし。

リズム、メロディとあいまって歌詞は成り立つようだ。
音として表現されることが前提で組み立ててあると再認識させられる。

海外で韻をふむことをとても重視するのは、文字が表音文字であるという理由からかもしれない。1文字に意味はなく、1文節に意味が存在するからだ。その意味を纏った1文節の韻を揃えることで、リズムもさらに際立ち、言葉からの音楽的アプローチがさらに楽曲を彩る。

 

日本語の場合はどうか。
日本はひらがなと漢字がある。
漢字は表意文字、象形文字である。
しかもそれを絶妙なバランスで使い分け、漢字で表現できるものでも、文章の難易度や伝えたい相手のレベルに合わせ、ひらがなに変えると判断することすらある。
ひらがなですら元となる漢字が存在している。
そして漢字を引き立てるためにも、ひらがなを表音文字として大切に扱う。

 

 

漢字を持つ民族において行為として「文字を書くだけ」の書道は、華道や彫刻のように芸術となる。
それはその文字の形そのものが、見るものに伝えるエネルギーが存在するからではないだろうか。形そのものの美しさ。その形が伝える想いや感情。
そのエネルギーをいかに伝えられる形で書けるか、が書道の鍛錬後に行き着く先の答えなのかもしれない。

感情も想いも手で書くことで一文字一文字にさらに含ませることができる。
だから手書きの手紙を受け取ると嬉しくも愛おしくもなるのは当たり前のことかもしれない。
現代はデジタルな文字を見る事ばかりだから。

 

伝えたいものを書く時は、文字そのものが持つエネルギーを意識的にお借りすることができるようになると、誤解されないように伝えることができるかもしれない、と、ほんの少しだけ、期待している。

だから歌詞を作るときもそうだが、今持ち合わせているこの気持ちの真意を伝えられるように、絶妙に表現してくれる言葉をいつも追い求めているのだろう。

 

そうして今日も誰かの書いた歌詞を目で見て声に出しながら、メロディを追いかけながら、自分に吸収していこう。

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